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奥の細道に残された伊勢参宮途中の2人の遊女の記録は、松尾芭蕉の最も意味深遠な性格描写であり、社会学的小論、そして女性の心に入り込んだ探究である。(我々は芭蕉は‘文学的な’ものではなく、むしろ人類学者であると信じている-その時代の女性についての情報が記録されているからだ)男性中心主義的な解説者や翻訳家たちは芭蕉の言ったことや近世日本の歴史的な現実を無視して、これらの遊女たちは「華やかな娼婦たち」とか「罪深き者」とかまたは笑い話として誤って述べられてきた。この記事の目的は、芭蕉本来の女性中心的実体を復活させることである。女性の人身売買を減少させようと努力している現代の女性たちが、より良い人生を探したこのヒロインたちの謎を探究することに価値を見いだせるように願っている。
遊女という言葉は売春宿の娼婦のみに使用される(Sone 1999, 169)。日本の江戸時代において、ほとんどの遊女は家族を貧困から救うために村々から年季奉公に出された少女たちである。Mikiso Hane(1982, 210‐213)は、彼女たちがいかに、お手伝いさんや給仕の職につかせるかのように言われて都市へ行き、しかしその後12、13歳から、残忍もしくは侮蔑的な男たちと毎晩セックスを強要され、拒んだり逃げようとしたりしたら打たれたかということを記述している。そのうち、少数のある者はこの生活を楽しみ、またある者は快適または裕福にもなれるこの‘職業’で出世し、金持ちの客に身請けされたりしたけれども、そのほとんどは、しばしば梅毒にかかって若くして死んでしまうか―吉原の遊郭での平均寿命は21か22歳だったとされている(Sone 1999,178) ―または「セックスとアルコール業においての付属物」として働き年老いたのだ。
売春宿は少女たちを「買う」わけではなかった。娘をローンの抵当として、その父親に金を貸しつける代わりに、娘はそのローンを払い終えることを要求される。彼女たちが客から受け取る金は売春宿が手数料を差し引いたものだ。宿側は心地よい2部屋続きのスイートルームと高級な食事を与えるが、しかし、それも彼女たちに課金される。宿側は少女にぜいたくな暮らしをするように奨励するが、それは(もちろん、10代の少女だということを忘れてはならない)もっと借金を作るためなのだ(De Becker 1899, 131-136)。病院にかかった場合、治療費はローンの元金に組み入れられる。わずかな女性しか借金から抜け出せないように、そして、少女たちがこの‘奉仕’を続けなければならないように、売春宿はこのシステムを作り上げていた。このシステムは合法的なものであり、奉行所によって支えられていた(De Becker 1899, 459-466)。
遊女の他にも、街道沿いの茶店や宿で働く「飯盛女」もまた客にセックスを提供していた。“vast numbers of unofficially recognized prostitutes thronged early modern Japanese society.”(Sone 1999, 174)もし芭蕉が下の記録において、売春宿の外で体を売っていた女性をさして、適切でない遊女という語を用いているのならば、その女はヒモか牛夫を連れていなければならない。Sone(1999, 176)は “instances of individual prostitution in which a woman made a living without an employer or anyone watching over (or living off) her were extremely rare”と述べている。₁
芭蕉と曾良は、暑い盛りの夏、日本海沿岸の旅をつづけ、市振の関(新潟県と富山県の境)に達する。二人は、関の東側におり、旅館か民宿で布団に横になっている。1943年に曾良による旅日記が見つかって以来、研究者たちは、曾良が市振で売春婦たちについて何も触れていないからということで、この出来事全部が架空のものだと強調してきた。しかしながら、たとえこの一節が想像上のものであったとしても、芭蕉の創作の中に、真実を探してみようではないか。
(奥の細道三九段)
(現代語訳₂)枕を引き寄せて早く寝たところが、襖一枚隔てた向こうの表側の部屋に、若い女の声が聞こえる。 二人ほどらしい。女の声に年寄りの男の声も交じって話をしているのを聞くと、越後国の新潟という所の遊女で あった。女が、伊勢に参宮をしようとして…
数ある英訳の出版物がこの部分について触れているが、なおも、ここでは女性の視点から何が起きているのか実際に考えてみなければならない。もし、彼女たちが新潟の売春宿の遊女であるとしたなら、都市部から西に約240㎞も離れた路上で何をしているのか ということが、大きな疑問点なのである。
1)彼女たちは路上の売春婦で、客を見つけたらどこででも体を売っているのか。曽根はこれについて、客引きの牛夫
(ぎう)なしでは考えにくいとしている。同じ部屋にいる年寄りの男は客引きではなさそうだ。
なぜなら、この後わかるのだが、男は翌朝新潟へ引き返し、女たちは自分たちだけで旅を続けるからだ。
2)休暇を取った売春婦たちなのか。もう戻ってこないかもしれない者に対して、600km以上も歩いて旅行するというような場合、売春宿は奴隷に休暇を与えない。
以下の二つは上記とは異なって、女性の現実により合ったものだ。
3)逃亡中である。もし伊勢神宮まで行き着けば、そこは聖域である。これは「抜け参り」と呼ばれる伊勢参宮を指し、奉行所や追手がこの二人を探している。
4)二人は売春婦であったが、支出を少なく抑え、幾年もの我慢をへて、やっとすべてのローンを払い終えたところだ。今は自由の身―自由に聖なる巡礼ができるのだ。
Keene(1996, 133)の「奥の細道」の英訳において、この箇所には華麗な着物と髪型の女性たちのイラストが描かれている。一体どうなっているのか。そのような出で立ちで何十キロ、何百キロと埃だらけの道を歩くことはできない。彼女たちが着物、帯、化粧品、装飾のかんざしや素敵な草履やらを荷物に入れて運び、600キロ以上歩くとは到底考えられない。二人は普段着で化粧をせずに旅をしている。彼女たちは聖なる巡礼の途中なのだ。二人の女性が遊女だったということは、襖の向こうから聞こえた会話を聞いて、芭蕉だけが知っているのである。
(現代語訳)…この関まで男が送って来て、あすはその男を故郷新潟へ帰すについて、手紙を認め、ちょっとした 言づてな どをしていると ろである。
年とった男というのは、女性どちらかの叔父か何かで、この旅に出るのを助けるのに賛同した人物であろう。明日、彼は、女たちが飢えから救った両親に、手紙を持って帰るのであろう。しかしながら、もし二人が抜け参りをしているのであれば、その手紙は謝罪文であるかもしれない。残された借金は、今後、両親が払うことになるからだ。
白波のよする汀なぎさに身をはふらかし、遊女の言うこの一行は古い和歌から連想されている。
しかし、彼女は「なぎさに」以降を以下のように言い換えた。あまのこの世をあさましう下りて、この遊女の嘆きは性の 売買で‘落ちぶれて浅ましい身の上に’なってしまったあらゆる時代の女性たちすべての声を代表している。
Barnhill(2005,p。166)は「この節は長大で数多くの解説がある」というが、多くの解説の中では遊女の嘆きに注目しているものはあまりない。男性研究者たちは、女性たちが不実なセックスをするのを楽しんでいると想像するほうを好んで、売春の悲惨さから目をそむけている。
Ueda(1983、57-58)は、この後に表れる芭蕉の俳句を「同じ宿に泊まることになった美しい二人の娼婦についての軽妙でユーモラスな」ものだとしている。芭蕉は遊女が美しいとは全く言っていないのだが、また上田もその悲惨さに
ついては触れていない。南部アメリカで、奴隷制擁護者が奴隷たちは楽しんで歌ったり踊ったりしているではないかと弁明してきたようにだ。
短歌にあらわれる‘コールガール’は、くつろぐべき家庭ではなく、代わりに毎晩違うラブホテルで寝なければならないことに憤りを感じている。この話し手は、毎晩違う定めなき(安定しない、または不定の)客を相手に、その男を喜ばせるだけに結ぶ、真実のない契りという語句を当てはめている。
愛の誓いがないセックスは―偽りの誓いも―機械的で空虚なものだ。そのような‘安っぽいセックス’なら「夜鷹」「綿摘み」などと呼ばれた女性たちが容易く見つけられたが、男たちは‘本物’により近い体験をもとめて高価な売春宿に通うのだ。娼婦と客は儀礼的な誓いを交わし、そのセックスこそが愛なのだというふりをする。それが彼が金を払う代価なのである。この定まらないということこそ最も彼女を悩ませたものだ。今、彼女と連れの女性は自由を得て、もしくは隷属から逃げ出してきて、二人は心の赴くまま、定められた契りを伊勢神宮で見つけようと望んでいる。
業因とは、字義的には‘原因と結果’だが、仏教の教えに関連したことばで、現世の運命が前世によって決まることを言う。遊女の言う「日々の業因」とは哲学者らが述べるようなものではなく、むしろ彼女の日々の体験におけるものだ。いかには疑問詞である。つたなしは‘まずい’とか‘運が悪い’という意味である。この話し手は何の業因によってかは全く分かっていない(実際に誰もわかる人間はいないだろう)。しかし、彼女は―性的奴隷制度に陥った女性なら誰でもそうだろう―なぜこのような人生を送ることになったのだろうかと考えている。彼女は農村で育った。いったい借金のかたに娘を売るという貧困はどうして起きてしまったのだろうか。
ある男性研究者や翻訳家たちが芭蕉のことばにはっきりと表されているみじめさというものを過小評価している一方、他方では、元々はなかった‘罪(sin)’という概念をこの惨めさに付け加えた者もいる。Donald Keene(1996, 131)はこの嘆きを
“What terrible karma accounts for our inconstant vows, the sins we have daily committed? We are wretched indeed.” 訳している。‘sin(罪)’とは「宗教的な戒律や法的道徳を犯し、神や人間性に背くこと」である。芭蕉の原文にはどこにも‘sin’について書いていない。この遊女たちは罪を犯していないし、逆に彼女たちは男たちが犯した罪によって生まれた被害者なのだ。
Yuasa Nobuyuki(1967, 131)は以下のように述べて、さらに明確にその惨めさは被害者である彼女たち自身のせいにしている。“having been forced to find a new companion each night, they had to renew their pledge of love at every turn, thus proving each time the fatal sinfulness of their nature.” Yuasaはこの遊女たちは私娼であると想定している。なぜなら、売春宿では女性たちは‘相手を探す’必要はなく、宿側が客に割り当てるか、客側が女を選ぶからだ。Keeneが女性たちが罪を犯したと言う一方、湯浅は “fatal sinfulness of their nature’ というフレーズで罪を女性に内在するものにしている。これは仏教の教義である業因とユダヤキリスト教の原罪というものを混同しているのではないだろうか。
湯浅自身が持つ罪というものへの見解を芭蕉に押しつけているのではないか。1684年に書かれた野ざらし紀行において、芭蕉は、道端に捨てられた2歳の子どもを表現して「つたなし」という語を使っている。どの観点から見ても芭蕉がこの子どもを罪深いと考えていないことは確かだ。被害者たちを責める代わりに、男たちが何年にも及ぶ暴力に耐えることよりもさらに偉大な彼女たちの英雄的な我慢と忍耐を称えようではないか。
(現代語訳)その翌朝、宿をたとうとすると、遊女たちは我々に向って、「これから伊勢までどう行ったらよいかもわからない道中の憂さが、なんとも不安で悲しゅうございますので…
この話し手は、日本女性のステレオタイプがそうであるように、多分に弱さと不安感を表してはいるが、しかし、彼女たちは夫なしで新潟を離れた強さと、芭蕉が市振までの道のりで被ったのと同じ‘此間九日、暑湿’の中を歩く強さがあるということを忘れてはならない。
(現代語訳)あなた様のお跡を見え隠れにでも、ついて参ろうと存じます。人を助ける御出家のお情けで仏様のお恵みを私どもにも分けて、仏道にはいる縁を結ばせてくださいませ」と涙を流して頼むのであった。
遊女たちは芭蕉と曾良の黒装束を見て、本物の僧だと考えたようである(違うのだが)。話し手は芭蕉と曾良に彼女たちを仏道へと導く‘結縁’を、と具体的に頼んでいる。神道の最も神聖な神宮への参拝への道中であるのだが、なおも釈迦の救いを求めるのだ。
また別の可能性について。この宿は市振の関の新潟側に位置しているとすると、今からそこを通過しなければならない。まだここは彼女たちの居住区であって、市振は二人が通過する初めての関所となる。ペレズは男女の巡礼者について述べている。
「関所の役人は巡礼者の格好をしていて、その振る舞いが怪しくない限りは、滞りなくその者達を通過させる。」(Perez, 2001, 306)
しかしながら、市振の関は女性の旅人には非常に厳しいと評判であった。この二人の女性は男性の気を引き、満足させることに慣れている。関所に入って、門番たちの心をセックスから、疑いの目からそらすことができるだろうか。関所に入った時に何が起こるかわからない。そこで、二人の間で、次の地方によりうまく入国できるチャンスを持てるように、芭蕉と曾良が二人を新参の同行者として受け入れてくれるかどうかを話し合って決めたのだ。
不便ふびんの事にハおもひ侍れども、
(現代語訳)かわいそうなことではあったが、「われわれは所々で滞在することが多いから、とても同行はできまい。ただ同じ方向へ行く人々の跡について行きなさい。きっと伊勢の大神宮がお守りくださって、無事に着けるだろう」
と言うばかりで出立してしまったが、かわいそうなことをしたという気がしばらく収まらないことであった。
芭蕉の答えは心ないものであるように思える。彼女たちの要望、安心感へのニーズを無視し、型通りの文句で払いのけた。ある仏教的思想においては、人は関わり合いを持つべきではなく、ただカルマの縁をしっかりと引くことだけによって助けようとするべきだという。この心ない返答は、しかしながら、旅の五年後に奥の細道が書かれた時の芭蕉が創作した文学的な工夫であるかもしれない。このできごとすべてはもしかするとフィクションであるということを覚えておいてほしい。芭蕉と曾良が二人の女性を助けた、と書かれていれば、我々は二人の未来にもっと確信を持てるだろう。彼が断わったことで、我々はあわれさしばらくやまない、となるのだ。 この女性の助けになろう唯一のことがある;お互いがいるではないか。
「すなわち彼らが倒れるときには、そのひとりがその友を助け起こす。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起こすもののない者はわざわいである。」
秋の寂しさの中、萩の小さな紫の花びらが茂みで数えきれないほど群生し、短い命を生きて、そして散っていく。
第二の季語、月によって句は秋の情緒の表現を特に強めている。
この二人の女性(と年老いた男)はこの宿へと長い道のりを歩いてきた。その日の長い苦労と不安感が俳句の残りの部分にある。宿の屋根を明るく照らす月明かりのもとで、すべての者が平和に眠っている。私には、多くの翻訳者がこの句の意味を、まるで、芭蕉がそれを生活の糧にしている女性たちと同じ建物の中で寝たことについて男子学生の冗談のように「売春婦と一緒に寝た」と考えていることについて、奇妙に感じられる。事実、この句には‘我は’や‘我々は’などは一切表れていない。主語は‘遊女’のみである。幾人かの男性たちがどんな場面においてでも男性はいるものだと主張しているからという理由だけで、我々が同じことをする必要はない。
また、寝たりも、性的な意味を含蓄していない単に平和な夢を見ながら「寝る」ということだ。男性中心的考えでは、女性というものは男性に仕えるか楽しませるかしか役割を持たず―つまり、もしこの女性たちがただ寝ているだけなら、ここに存在していないことと同じなのである。芭蕉にとっては、しかし、彼女たちは聖なる巡礼の途中、毎日何十キロと歩いているという同じ立場のものなのであり、眠りが必要なのである。彼らの邪魔はしないでおこう。
この女性たちは売春婦ではないということを覚えておいてほしい。
二人は売春の世界から脱出したのであって、そこに差異がある。Aitken(1978,99)は、いくつかの解釈で、芭蕉が自身を澄んだ空に浮かびゆく月と位置づける一方、遊女は短い命を下方で生きる可哀そうな萩のレベルにあるとされていると注記している。₁₆アトキンはこれを支持していないが、私も同感だ。芭蕉にはほかの誰かより‘上に’いるというような私見は持っていない。
また、今栄蔵は、芭蕉が汚れた服のみすぼらしいほうで、遊女たちが月のように優雅なもの(もっとも、我々は遊女たちは普段着だったと信じているのだが)だと見ている。比較―複雑な人間というものを簡単な言葉で上か下かに特徴づけすること―はこの句においては行われていない。Aitkenは「比較は不愉快なものだ」と述べる。この句でポイントとなるのは、比較よりもむしろ一体化(Unity)である。
人がよく寝ている―意識下で活動している―のを見る時、神々しく、別の世界に行っているように感じるものだ。屋根を照らす月はその宿を神社のようにし、萩はこの聖なる場所を飾る。この神社の中で、二人の勇敢な女性が神といっしょに眠っている。彼女たちは人類の聖像であり、シンボルなのである。我々すべての者が、何をして何であろうとも、風に散る小さな花びらのようなものだ。この宿にいる皆、一般客も旅の詩人も巡礼の女性も、そして宿屋の家族もやがては死んでいくであろう、月が永遠に輝いている中で。
男性中心の解説と女性中心に見た現実とを対照してみよう。
優雅な着物を着てエレガントな髪形をした「売春婦」(男たちが見てみたいと思うような方法)
●目立たず素朴な巡礼用の着物を着た女性たち―男性の注目を集めたいとは全く思っていないのだから
「毎日犯している罪」または「女性に内在する罪深さ」
●売春宿で女性の意志に反して強いられてきた堕落
芭蕉/男性と女性との比較
●女性たち自身
売春婦とともに寝た’(だって、同じ宿に泊まったから)という、男の冗談。ははは…
●月のもとで萩のように安らかに眠っている探究的なこの女性の英雄への敬意。
【注】
1 この一節は J.E. deBecker, The Nightless City: Or the History of the Yoshiwara Yukwaku の19世紀の売春について述べられたものから抜粋されたもので、芭蕉の時代と基本的には変わっていないと思う。
2 日本語の現代語訳はすべて日本古典文学全集71巻、2003年)による
【参考文献】
井本農一2003 「松尾芭蕉集②」井本農一ほか『新編日本古典文学全集71』小学館
Aitken, Robert, 1978.A Zen Wave: Basho’s Haiku and Zen, Weatherhill.
Barnhill, David Landis. 2005. Basho's Journey: The Literary Prose Of Matsuo Basho. State University of New York Press.
De Becker, J.E. original publication 1899/ 2000. The Nightless City: or the History of the Yoshiwara Yūkwaku. New York: ICG Muse, Inc.
Hane, Mikiso. 1982. Peasant, Rebels and Women and Outcastes: The Underside of
Modern Japan.: Pantheon Books.
Keene, Donald. 1996. The Narrow Road to Oku,: Kodansha.
Perez, Louis G. 2001. Daily Life in Early Modern Japan: Greenwood Press.
Sone, Hiromi. Translated by Terashima, Akiko and Walthall, Anne. 1999. ‘’Prostitution and Public Authority in Early Modern Japan’’ in Women and Class in Japan History. 169-185: Center for Japanese Studies, University of Michigan
Ueda, Makoto, 1982. Matsuo Basho: Kodansha USA.
Yuasa, Nobuyuki. 1967. Matsuo Basho: The Narrow Road to the Deep North and other Travel Sketches, Penguin Classics.
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